先に、原文が何を言っていないかから入る。

この小説に風呂は出てこない。浴室も出てこない。湯あみの場面も無い。本文を端から端まで探して、体を洗うことに関わる言葉で当たるのは、いま読んでいるこの場面の洗面台と、その上のマグと石鹸皿だけである。つまり、学院の子どもたちがどう体を洗ったかは、原文からは分からない。以下は当時のふつうの暮らしから当てた話で、作品がそう書いているわけではない。

まず、当時の家に浴室は無い。一八三〇年から六五年ごろの暮らしを書いたC・S・ピールの記述に、どれほど贅沢な家にも無かった数少ないもののひとつが浴室だった、とある。据え付けの浴槽がいくらか普通になるのは、そのあとのことである。

代わりにあるのが洗面台だった。同じ記述に、相応の部屋なら洗面台の上に大小ふたつの陶の鉢と水差しの一そろいが載っていた、とある。顔と手を洗うのはここである。

どれくらいの頻度か。同じ記述が数字を挙げている。手と顔は一日に二度、足は週に三度、全身の湯あみは週に一度、これで気前のよいほうだと考えられていた。使用人も、暮らし向きのよい貧しい人びとも、毎日顔を洗い、週に一度湯を浴びた。

そして寄宿学校について、同じ記述がはっきり言う。上等な部類の寄宿学校であっても、日々の洗面と週に一度の湯あみで足りるとされた、と。つまりこの学院の子どもたちは、週に一度である。

その週に一度をどう浴びたか。桶を使う。腰湯の桶といって、腰まで浸かって足は外に出す形の、浅くて小さいものである。ピールの記述は、部屋の中か、近くの都合のよい場所に、婦人ひとりにつき一つ置かれた、と書いている。ここが肝心で、人が浴室へ行くのではなく、桶のほうが部屋へ来る。

湯も水も、すべて台所と洗い場から人が手で運んだ。浴室が無いのだから当然そうなる。これもベッキーの仕事の側にある。

腰湯の桶は、寝そべる浴槽ではない。入る湯は十数リットルで足りる。だから人が運べるし、寝室の火の前に置ける。逆に言えば、据え付けの浴槽が普通になるには、湯を管で送れるようにならなければならなかった。

ここから先は、原文にも手元の記述にも無い。建物のほうから言えることだけを書く。

相部屋には暖炉がある。桶は火の前に置いたはずである。衝立は当時の寝室にごく普通にあった家具で、人目を隔てるのに使えた。寝台を並べて数えると一部屋に十一台、二階と三階で二十二人になる(これはこちらの図が出した数で、本文は生徒の数を言わない)。全員が週に一度なら、一日に三人から四人。順番が回る。

寝床を布で仕切って一人ずつの小部屋にする工夫は、この時代に無かったわけではない。一八四九年にラドリー校が建てた寄宿舎には、上の寝室に七十、下に四十三の小部屋があり、どれも入口に布が垂れていた。共同の寝床に仕切りが無いのは道徳の感情を損なうとされ、一人になれる場所を作ることが学校の改革として語られている。ただしこれは男子の名門校の話である。ミンチン女史の学院は、儲けのために建てた小さな学塾で、同じものがあったとは言えない。

言えないことを並べておく。子どもたちが裸になって浴びたのか、肌着をつけたまま浴びたのか。順番をどう回したのか。桶を置いたのが寝室なのか、別の場所なのか。どれも分からない。当時は湯あみのときに肌着を着る習慣もあったが、それが寄宿学校の相部屋でどうだったかを示すものは見つけられなかった。

最後に一つ。この学院には週に一度の湯あみのための部屋が無い。図を引いてみると、置ける場所は寝室の火の前しか残らない。十一人が一つの部屋で順に浴びることになる。ずいぶん大変に思えるが、当時はそれがふつうだったというより、浴室という部屋そのものがまだ発明されていなかった、という順序のほうが近い。

出所について。洗面台の一そろい、洗う頻度、寄宿学校についての一文、腰湯の桶、湯を運ぶことは、C・S・ピール「家と習慣」(G・M・ヤング編『初期ヴィクトリア朝のイングランド』一九三四年)による。ラドリー校の小部屋の数とその趣旨は同校の記録による。原文に何が無いかは、本文全文を bath, bathe, wash, basin, ewer, jug, tub, towel, soap, sponge で探した結果である。


この文章は、青空の本を原語で読むための読書アプリ「原文庫」の、『小公女』につけた解説から転載したものです。アプリでは本文の該当箇所からこの解説へ飛べます。